看護師として働いていると、能力への不安を感じる瞬間があります。
勉強しても成長している実感が持てず、自分だけが取り残されているように感じることもあるかもしれません。
今回は、能力への不安から看護師をやめたくなる瞬間について、現場の経験をもとに言葉にしてみます。
「できない自分に気づく場面」
能力への不安で、看護師をやめたいと思ったことはありませんか。
一人で残って記録をしている。
周りを見ると、みんなは仕事を終えて帰っている。
わたしって、なんでこうなんだろう。
そう思ったことはありませんか。
「できない自分」に気づく瞬間です。
何度やっても身につかない感覚
勉強しても現場で活かせない。
知識と実践のギャップ。
「わかっているのに動けない」。
自分が成長しているという感覚を持つことは、とても難しかったように思います。
一生懸命に勉強をしてみたり。
タイムスケジュールを作ったり。
人の動きを観察して、自分に何が足りないのかを探したり。
何度も考えて、何度もやってみました。
でも、やっぱり思うようにできない。
努力が足りないのだろうか。
看護師の素質がないのだろうか。
だんだん、看護師に向いていないのかもしれないと思うようになっていました。
何をやっても駄目だと思い始めると、出来ていたことまで失敗してしまう。
悪循環という言葉が、まさに当てはまる状態でした。
わたしは、どんな看護師になろうとしていたんだろう。
今なら、患者さんが「胸のあたりが苦しい」と言われたとき、
緊急性を考えながら観察し、必要な検査を想定し、行動できます。
症状の経過や既往歴を確認し、
必要に応じて心電図や不整脈の確認を行いながら原因を考え、
リーダーや医師へ報告する流れです。
でも、これらのことが自分の中で整理され、
実際に行動できるようになるまでに、どれくらいの時間と敗北感を経験してきたのか分かりません。
その繰り返しの中で、少しずつ積み重なっていったものがあったのかもしれません。
周囲と比較してしまう苦しさ
特に若い頃に感じていたのは、同期との差でした。
早く夜勤に入れる人。
重症な患者を任される人。
先輩から信頼されて仕事を任される人。
分かっていても、差が広がっていくようで怖かった。
先輩たちの何気ない言葉も、必要以上に気にしてしまう自分がいました。
経験年数を重ねると、比較の対象は変わっていきます。
同期ではなく、今度は後輩との比較。
みんなができる看護師に見えてしまう時期もありました。
比較は、習慣のようなものなのかもしれません。
そんな中で、比較から少し離れるきっかけになった出来事がありました。
認定看護師の教育機関で学んだ経験です。
そこには、別世界のような看護のスペシャリストたちがいました。
年齢に関係なく、圧倒的な知識と経験を持つ人たち。
どんなに努力しても、差は埋まらない。
比較する意味すら見つからないほどでした。
でも、その経験の中で気づいたことがあります。
同じ看護師になる必要はないということ。
比較していいのは、過去の自分だけだということ。
苦しかった時間でしたが、得たものは大きかったように思います。
能力への不安は、消えるものではないのかもしれない
能力とは何を指すのでしょうか。
新人看護師が考える能力。
中堅看護師が考える能力。
専門分野を持つ看護師が考える能力。
管理者から見た能力。
それぞれが思い浮かべるものは違うはずです。
医療は日々変化しています。
新しい知識の更新なくして現場に立ち続けることは難しい。
能力への不安は、消えるものではないのかもしれません。
わたしが看護師の能力として大切だと思っているのは、
「看護師であろうとしているかどうか」という姿勢です。
医療の変化に向き合いながらも、
看護としての何かを持ち続けようとする姿勢。
それも一つの能力なのではないかと感じています。
それでも続けている人がいる理由
不安なく看護を続けている人はいるでしょうか。
人を対象とし、命に向き合う仕事である以上、
葛藤がなくなることはないのかもしれません。
わたしでいいのだろうか。
できることはないのだろうか。
何が最善なのだろうか。
それでも、この職業を選び続けている人たちがいます。
看護には、言葉にしきれない価値がまだあるのだと思います。
続けている人は、それぞれの中に看護の軸を持っているのかもしれません。
あなたは今、どんな不安を抱えていますか。
やめたくなる瞬間がありますか。
それでも、続けていこうとしている自分はいますか。
次回は、
看護の勤務体制からみた、やめたくなる瞬間について話してみたいと思います。



