看護の空気シリーズ

🌱看護の空気感

テーマ 見るという看護

私たちは、毎日「見る」という行為を繰り返しています。
けれど、その「みる」がどんな意味を持っているのか、立ち止まって考えることは多くありません。
看護における「見る」とは何か。その輪郭を、少しずつたどってみます。

看護でいう「見る」とは何を指すのか

「みる」にはいくつもの層がある

「見る」ということについて、考えたことはありますか。

見る。観る。視る。看る。診る。
同じ「みる」でも、そこにはいくつもの意味があります。

看護の現場では、わたしたちは日々あまりにも自然に「みる」を使っています。けれど、その見方の違いを意識する機会は、案外少ないのかもしれません。


バイタルサインや症状を確認する「見る」

バイタルサインとは、生命の維持徴候のことです。
体温、脈拍、血圧、呼吸、SpO₂、意識。そこに痛みや尿量などを含めて考えることもあります。

看護師は、このバイタルサインを通して「生きている」を確認しています。
臨床にいる看護師にとって、バイタルサインの測定は、もはや特別な行為ではないのかもしれません。あまりにも日常で、身体が自然に動くほど、繰り返してきた営みです。

わたしのいる領域では、バイタルサインが一分単位で更新され続けます。
だからわたしの視線は、たしかに数値を追っています。同時に、身体症状も追っています。

けれど、その数値の手前には、いつも患者さんがいます。
患者さんを見てはじめて、その数値が何を意味しているのかが少しずつ見えてくる。そう感じています。

「バイタルサインを見る」
「身体症状を観る」

あえて言葉を分けるなら、前者は「見る」、後者は「観る」や「診る」に近いのかもしれません。


看護の「看」という字が示しているもの

以前、上司だった看護部長が話の中でこんなことを言われました。

看護の「看」という字は、手と目からできている。
看護とは、その両方を使って観察することなのだ、と。

看護の世界ではよく知られた考え方なのかもしれません。けれど、わたしはそのとき初めて出会い、深く心に残りました。
臨床経験を重ねてきた自分に、その言葉はまっすぐ刺さりました。
本当にその通りだと、感動したことを覚えています。


なぜ看護では「見落とさない」ことが重視されるのか

見落としが大きな変化につながる現場

臨床では、「見落とさないように」という言葉がよく使われます。
わたし自身も、自分が見落としていないか気になって、患者さんを何度も振り返ることがあります。一度見たけれど、やっぱりもう一度見ておこうと観察し直すことも少なくありません。

それは、単なる心配性とは少し違う気がしています。
「見落としたら、大きなことにつながる」
その怖さを知っているからだと思うのです。


安全管理のために見続けているもの

見落としたくないものには、たとえば次のようなものがあります。

・急変の予測につながる変化
・安全を保つために必要な確認
・見逃してはならない観察項目

この三つだけでも、現場の観察量は膨大です。

たとえば、人工呼吸器を装着している患者さんの安全管理を考えてみると、見るべきものは数えきれません。
機械が正常に作動しているか。アラーム機能や設定は適切か。モニタリングされている数値に変化はないか。人工気道は安全に保たれているか。換気の状態はどうか。同調性はどうか。

見る場所が多い。
だからこそ、見落とさないようにしようとする。
それは現場の切実な感覚でもあります。


わたしが話したい、もっと深くて重い「見る」

ただ、わたしがここで話したい「見る」は、それだけではありません。
もっと深くて、もっと重い「見る」です。
それは、数値や症状の確認だけでは届かない、その人全体を捉えようとするまなざしです。


「観る」とは何だろう

患者さんの背景や文脈まで含めて捉える

「医師は病気をみて、看護師は患者をみる」
そんな言葉を聞いたことはありますか。

わたしは、医療者とは、病気だけではなく、その病気を抱えている患者さんをみる人だと思っています。
そのなかでも看護師は、患者さんの生活、価値観、不安、そして関係性を捉えることに強みがあるように感じています。

家族との関係。病気との関係。社会との関係。医療者との関係。
入院生活のなかで、患者さんのいちばん近くにいて、いちばん長く時間をともにするのは、看護師であることが多いはずです。

だから、看護師は患者さんを観るのだと思います。
気づける場所にいること。
それが、看護師のいる場所です。

看護師は、患者さんの身体だけを見ているのではありません。
生活も、価値観も、不安も、関係性も、身体の変化も観ています。
そこに気づきが生まれ、看護になっていくのだと思います。


数字の奥にある身体の声を聴く

数字をどう見ているかには、それぞれの看護師の見え方があるように思います。
わたしにとって数字は、身体の声です。

とくにクリティカルな領域にいる看護師には、この見方をしている人が少なくないように感じます。
薬剤の影響や脳機能の影響で、言葉を出したくても出せない患者さんを、ひたすら見続けていた時期がありました。

日常会話はできない。
患者さんは、今どうしてほしいのだろう。
痛いのか、熱いのか、不快なのか。ちょうどいいのか。
何かを伝えようとしてくれているのかもしれない。

わからない。
看護が、わからなくなる。

気づけば、泣いていた日もありました。

そんなとき、バイタルサインの数値は身体の声なのだと気づきました。

SpO₂は保たれていても呼吸が浅い。
そのとき身体は、すでに別の負担を抱えているのかもしれません。

閉眼していて動きがなくても血圧が上がっているなら、何か苦痛があるのかもしれない。あるいは発熱の前ぶれかもしれない。

身体は、ずっと教えてくれていた。
そう思えた瞬間がありました。


数値に表れない変化に気づくということ

バイタルサインが正常なら、身体の状態は安定していると判断されることが多いと思います。
それでも、今日の歩き方、座っている時間、表情、目線、むくみ方。そうしたところを見ていると、数値には表れていない変化が起きていると感じることがあります。

そういう経験を、看護師は何度も重ねているのではないでしょうか。

わたしたちは、多くの情報を見ています。
そのうえで、言葉になる前の変化を、どこかで拾っています。

言葉にならない患者さんのサインは、ときに申し送りの中でこんなふうに共有されます。
「なんかちょっと気になるんだよね」

その言葉の中に、言語化できていない観察が含まれていることがあります。

その「なんか」を、看護師はたしかに観ているのだと思います。


「観る力」はどこから育つのか

経験だけでは育たない

臨床看護師の「観る力」には、経験した時間や内容がたしかに関係しています。
でも、それだけではないとも思っています。

以前、別の記事で第六感のような感覚について触れたことがありました。
看護師の人間性もまた、この力に関係しているのではないかと感じています。


患者さんを思う姿勢が視点を育てる

患者さんを思う深さ。
日々の経験を問いに変え、次に生かそうとする姿勢。
そうしたものが、「観る力」を育てていくのではないでしょうか。

経験年数が少なくても、よく見ている看護師さんはたくさんいます。
反対に、年数だけでは届かない視点もあるように思います。


忙しさの中でも余白を失わないために

日々、精いっぱいだと感じることはありませんか。
わたしもその一人です。

「終わりが見えない」
そう思う日もあります。

そして、ときどき情けなくなることがあります。
「看護師さんが忙しそうだから」と気をつかわせて、患者さんがじっと待っていたり、我慢していたりする場面に出会うからです。

それでも、忙しいのはわたしたち側の事情なのだと、自分に言い聞かせます。
忙しいからできなかった。
忙しいから気づかなかった。

そう言いたくなる日もあります。
それでも、命を扱う現場では、それだけでは済まされないことがある。

だから必死なのだと思います。
そしてわたしは、気づくための余白を失わないことを、自分の中のルールにしています。
見るところは、きちんと見る。
時間をかけるべきところには、時間をかける。

安全のための看護。
人をみる看護。
気づく看護。
命をみる看護。
命を守る看護。

看護は、本当に多くのものを引き受けています。


わたしたちは、患者さんの何を観ているのだろう

看護師ごとに異なる「観る場所」

看護師は、何をみているのでしょう。
一言でいえば、患者さんを観ています。

でも、患者さんのどこを観ているのかは、看護師それぞれに委ねられているようにも思います。
表情をよく見る人もいる。
呼吸の変化に敏感な人もいる。
生活の乱れや家族との距離感に気づく人もいる。

見ている対象は同じ患者さんでも、観ている場所は少しずつ違うのかもしれません。


その問いを持ち続けることの意味

だからこそ、問い続けることが大事なのだと思います。

わたしは、患者さんのどこを観ているのだろう。

あなたは、患者さんのどこを、みていますか。
その「みる」は、どんな意味を持っていますか。